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ときどきの映画紹介

2024.07.26 更新

観る者に忍耐を強いるようなオープニングの映像と音は、その後の物語が決して明るく心地よいものではないと暗示している。映画館でこの快適とは言えない状況を、たまたま同時に同じ場所で受け入れなければならない見知らぬ観客同士の気配を意識する映画なんてそうザラにはない。観客のひとりとしてまるで何かの儀式を待つような気分でいると、一転して水辺りでピクニックだろうか、家族が和やかに過ごしている風景が映る。川での水遊びをする家族、何かが流れてきたことで父親が慌てそのピクニックはすぐにお開きになる。

どうやらこの家族が中心になる映画のようだ。
幸せそうな子ども達、庭に咲く美しい花々からもこのドイツ人の家族は、経済的なゆとりがありそうだ。夫は高い役職についているようだが、家庭内で見る限り夫がどんな仕事をしているのか想像もつかない。広い庭、子供たち用の滑り台付きプール、ゆったりとした家屋、そして隣の敷地からは不穏な煙が出ている。
この映画を観る多くの人は私も含めて、事前に隣の敷地がアウシュビッツ収容所だということを知っていると思う。しかし映画の中には、私たちが今までに見てきたような収容所らしい映像は現れない。夫のルドルフ・ヘスは収容所の所長のようだ。時々戦況と相まって家庭内にちょっとした緊張感が生まれる瞬間はあるが、さほど大きなことは起こらない。収容所内の人をどのように数多く処分するのかの新技術が、設計図と共に語られても業務のひとつにしか感じていない関係者達の様子に背筋が寒くなる。妻はこの生活にかなり満足しているように見える。ルドルフ・ヘスは妻の要望を聞いて単身赴任をし着々と仕事をこなしている。他の女性と肉体関係を持っても淡々としている。妻は自分で築き上げた快適な家や庭を守るべくアウシュビッツ収容所の隣に住み続けている。隣で何か起こっているのかなど、この家の人々にとっては全く関係のないことなのだろう。
では、ここで私は何を考えたらいいのだ。私はこの映画のどこにいるのだろうとモヤモヤとした気持ちが燻り続ける。
そして突如切り替わる最後の映像では、人種や国籍、どんな立場であれ決して無関心では済まされないと、静かで重みのある圧力をかけられた。
この映画は、映画好きなら観た方がいい。そしてできることなら、誰かとこの恐怖や無関心について語り合えるといい。

ところでヒトラーの片腕だったルドルフ・ヘスにはこんな時代もあったのかと、私がぼんやりと知っているヘスとはちょっと違っているなと調べたら、全くの別人だった。この映画のルドルフ・ヘスも実在の人物でありドイツ生まれでアウシュビッツ収容所の所長を務め、戦後は戦犯として絞首刑に処せられたようだ。一方ヒトラーの片腕で副総統だったルドルフ・ヘスは、エジプトで生まれたドイツ人。そして1987年93歳で、刑務所内で自死している。
副総統のヘスについては色々な記録が残っている。私が興味深く読んだのは映画監督でもある吉田喜重(1933〜2022)が、2020年に刊行した小説『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』だった。映画監督がどんな小説を書くのだろうという興味からの読書で、ナチスへの興味のためではなかったのだが、この小説も不思議な味わいのある作品だった。
余談だが、こうやって知識の小さなパーツが組み合わさって自分なりの理解が深まると、映画を観たり読書することはやめられないなあ。

2024.7.15(M)

星評価 4.5