毎年この時節には、緑豊かに草木が輝くのではありますが、今年の五月から六月にかけては、山桃の実がいつになく早く赤みを帯び始めたように、真夏かと思わされる日々があるかと思えば、寒の戻りのような日々とがせわしなく繰り返されました。ただでさえ老いてきたわが身は、音を立ててきしむよう。とはいえ、少しでも身の回りを片付けなくてはなるまいか、と動いたら、いくつかの走り書きのメモが残る紙切れが出てきたり。こりゃあ、いつ頃、何からメモしたのだろうと、考えてもすぐに思い出せるわけがないのは、いつものこと。メモの残し方が悪いのは、若いころからの悪癖です。そのいつ書いたかは不明のメモの一つには、こんな一句が読めます。
「語るべき友さえ稀になるままに、いとど昔のしのばるるかな」
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私は、かつて60年も昔に、都立高校を卒業したのですが、同窓会活動に私とは違って実に熱心に取り組んでくれている旧友たちもいて、まめにほぼ定期的に通信を回してくれています。その便りに、旧友たちの訃報が告げられることも、しばらく前から目につくようになりました。「70代はまだ青春だ」と、のたまわったフランスの有名な老練の歴史家も、私が日仏交流のお世話をしていたころにいらっしゃいましたから、気は持ちよう、ともいえます。しかし、若い頃からいろいろ世話役やら、実務的な役回りを、なぜか背負い続ける人生を過ごしてきた我が身としては、それらの役割からすべて撤退できた今は、隠棲願望が強いのが正直なところ。
そうした私の身からすると、この一句は、実に心にひびきます。私のメモにされていたこの句、心にじんと来る言葉をつむいだのは、有名な兼好法師にほかなりません。兼好法師といえば、高校時代に古典の一つとして授業で読んだ『徒然草』の記述の、現代にも通じるような鋭い目のつけどころ、しかも人に対する、あるいは身辺雑事ともいえるような日々のことがらをめぐる、じつにシャープな言葉の切れ味、それでいて決して押しつけがましくもなく、一種の心の余裕を想わせる文章に、圧倒された記憶が、私の脳裏をかけめぐったのでした。
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あらためて調べなおしてみたら、1283年ころに生まれた吉田兼好は、卜部兼好(うらべのかねよし)というのが生来の姓名で、朝廷に出仕して歌人としてもすぐれた才能を示し、名の通った人でしたが、京都の吉田に住居があったことから、吉田兼好と名乗ったよし。当時の鎌倉時代末期から南北朝へという時代は、決して穏やかな世相ではなかったはずです。それにしても、私が「吉祥憲彦」と名乗るような話ですから、シビアな時代状況のなかでの、彼の何となく自由さを感じさせる動きが、なんとも素敵なように思えます。
『徒然草』の冒頭に「つれづれなるままに日暮し硯(すずり)に向かいて、心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」と書き起こされていることは、有名です。同時代の世相を自在にとらえて、さめた眼力で、一種の世捨て人のような位置から距離を置いて観察したところを、単純にけなしたり批判したりするのではなくて、おそらく人の特性の一部が現れたものとして、余裕をもって、ときにはユーモラスに、描き切る力は驚くほど。
手元に出てきた一枚の紙切れのメモは、私にとってはすでに遠い過去となった高校時代の驚嘆の気持ちを思い出させてくれるものとなりました。それにしても、30歳のころに出家して兼好法師となった兼好(かねよし)は、古稀を迎えるころに静かに逝去したようです。明確な生没年が記録として残されていないのも、何か不思議ではありますが、「世捨て人」としての見事な去り方のようにも思えてきます。
くちなしの白い花が香りを放つ夏至の候、『徒然草』でも読み直してみようか、などと思う日々です。

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏
学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長
1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。
