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三浦しをん「なにごとも腹八分目」

2025.05.20 更新

 タクシーに乗っていて、運転手さんとのあいだで昨今の物価高が話題になった。

「いまやワンコインじゃあ、昼飯を食べるのもむずかしいですからねえ」
と運転手さんは嘆く。

「たしかに。私は近所のスーパーで、一リットルの紙パックのアイスコーヒーを買うのですが、二年まえまで一本九十五円とか九十八円だったのに、いつのまにか百三十円になんなんとしています」

 これはまあ、本当にアイスコーヒーなのか疑わしいほど、もともとが安すぎたとも言える。実際、「黒い色がついた水」みたいに味が薄いのだが、仕事をしながら大量に飲むので、胃に負担がかからなくていい。命の水(黒)が値上げされ、私は地味にショックを受けているのだ。

「あとは、なんといってもお米ですよね」
と言ったら、
「あ、米はね、自分は食わないんで関係ないんですよ」
と、運転手さんは思いがけず素っ気ない反応だ。

「食べない? 穀物アレルギーとか、炭水化物ダイエットとかですか」
「いえ、米の味もにおいもきらいなんです」
「ええっ!?」

 そんなひとがいるのか。いや、ひとそれぞれに食べ物の好ききらいがあると思うが、日本に長く住んでいて、なおかつ「食べない」ほど米が苦手というケースはめずらしい気がする。少なくとも私はこれまで、「味もにおいもきらいだから米を食べない」というひとに会ったことがなく、大変驚いた。

「自分が生まれたのは、ド田舎の農村でしてね」
と運転手さんは語る。「大半が蕎麦畑で、あとは家で食べるぶんだけの米を収穫する田んぼがあったんですけど、この田んぼで採れる米が、とにかくまずい!」
「そんなにまずいって、どんな品種なんですか?」
「コシヒカリだったので、問題は品種じゃない。土壌なのか日当たりの加減なのかわかりませんが、どう育てようがクソまずい米しか採れない、魔の田んぼだったんです」

 かえって気になるな、その田んぼ。

「それで自分、米がきらいになったんですよ」
「でも、大人になって家を出たら、おいしいお米をスーパーやらで買えるわけですよね」
「はい。もちろん新米を買って、食ってみました。けどやっぱり、『まずいし、くさい』と感じるんですよねえ」
「くさい!? ほこほこと甘い香りがするじゃないですか」
「それがダメ。実家の田んぼが魔の田んぼだったのも事実ですけど、自分はそもそも、うるち米のもっちりと甘い味もにおいも食感も苦手だったんだな、と気づきました。いまは、カレーライスを食べたいとき用に、インディカ米を自宅に常備してます。インディカ米の香りとパサパサした食感は、まだしも許容できるんで」
「へええ。じゃあ、ふだんは主食として、お米の代わりにパンや麺類を食べてるんですか?」
「パンはね、パサパサしてるから、あまり好きじゃない」
「インディカ米のパサパサはオッケーなのに!?」
「パサパサの種類がちがいます。蕎麦も、村にいるときにいやというほど食ったから、もう御免ですし、スパゲッティなんて小洒落たもんは、あんまり食う機会がない。辛うじて、うどんかなあ。でも、嚙むのも飲みこむのも疲れるんで、たまに同僚に蕎麦屋に誘われたときぐらいしか食いませんね」

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著者:三浦しをん(みうら・しをん)氏

1976年、東京生まれ。
2000年『格闘する者に○(まる)』でデビュー。
2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2015年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞、2019年に河合隼雄物語賞、2019年『愛なき世界』で日本植物学会賞特別賞を受賞。
そのほかの小説に『風が強く吹いている』『光』『神去なあなあ日常』『きみはポラリス』『墨のゆらめき』など、エッセイ集に『乙女なげやり』『のっけから失礼します』『好きになってしまいました。』など、多数の著書がある。

撮影 松蔭浩之

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