だいたい吉祥寺に住まう

ゆるく楽しく、
都市住まいをする大人のために

2025.10.20 更新

戦後80年の節目に呼びおこす記憶(中)

 前回は、千宗室さんご逝去への追悼文を書かせてもらいましたが、今回は、もともと書いておこうかと思っていた中身に戻りたいと思います。幼児期の記憶がいったい何歳ごろから正確になるものかは、私にも良くわかってはいませんので、あくまで記憶の中から、間違ってはいないだろうと思う範囲で書かせてもらいます。いつの時代でも子どもたちは、パターン化された行動をとるようでいて、大人が思うほどには型にはまっていないことも少なくない、と思われます。私の場合には、のちに母親からしばしば聞かされたところでは、およそ親の言うことを大人しく聞き分ける子ではなかったようで、「あなたは何を言ってもどこ吹く風だからね」というセリフを、大人になるまで何回も聞かされたものです。そういう子が大学の教員になるなんて、いったい大丈夫なのか、というのが、親の本心だったようで。

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 私が吉祥寺に住むようになったのは小学校2年生の時からだということは、何回か書いたのですが、戦後間もなく私自身が生まれたのは、両親と私より3歳年長の姉とが住んでいた自由が丘の借家で、お産婆さんがそこで取り上げてくれたそうです。かつては産院よりも自宅出産の方が普通だった、そう言う時代の子、というわけです。いつから代々木に引っ越して目黒区民から渋谷区民になったのかは、聞いていませんし、あえて調べてもいません。代々木の家は、隣家との間に井戸のある、何部屋かからなる小さな平屋でした。それは借家だとばかり思い込んでいたのですが、のちに、私たち家族が吉祥寺に移った後、この代々木の家の売却を巡って隣家とのあいだで悶着があって大変だったと、しっかり者だった年長の姉は母から話し相手として聞かされていたのだそうです。小さい頃の記憶というのは、およそアバウトなものですが、おそらく3、4歳頃から断片的に記憶が残っている感じです、私の場合。

 現在では渋谷区代々木3丁目にあたる一帯は、かつては代々木山谷町という名前でした。山谷といっても、あの山谷ブルースで有名になった下町のところではなくて、代々木駅の西側から小田急線の参宮橋駅にかけて、北側は南新宿駅の北に広がって甲州街道に出る少し手前まで、当時は京王線が甲州街道の南側の路面沿いに走っていて、新宿駅には、国電(いまのJR)中央線の跨線橋の手前くらいからであったと記憶していますが、上から入ったり出たりしていた、と思います。少なくとも、親にくっついてそこまで出かけた時の記憶では。

 今の将棋の名人藤井くんほど徹底してはいませんでしたが、戦後しばらくの頃の男の子にとって、電車が走るところを見るのはとても魅力的で、「小さい頃にはよく車掌さんの真似をしていた、お相撲さんの真似もだけどね」という話を、のちに母親からはしばしばきかされたものでした。まだ小ぶりで可愛らしかった京王線が、新宿駅を出たり入ったりするところを眺めるのは、小さい子には魅力的だったのだろうと思います。同時に、今とはおよそ異なるだだっ広いだけであった西口前の広場には、青空市場がテントがけで広がっていた光景も、ぼんやりと記憶に残っていますが、そこで親と一緒に買い物したことはなかったのか、その記憶はありません。ただ、なんだかすごいところだという感覚だけは、のちのちまで残っていました。吉祥寺のハモニカ横丁も私の幼少の頃から面白いところでしたが、大きさは、その比ではありませんでした。

 甲州街道沿いの南新宿で、今では大学まで含めて大規模になり、有名になった文化服装学院は、すでに当時からあって、たしか小学校の学芸会は、その講堂を借りてしたのではなかったか、と思いますが、私が山谷小学校に在籍したのは1年生の時だけでしたので、正確かどうかは分かりません。まだ戦後間もなくは、山谷町の我が家から甲州街道にかけての一帯には、終戦直前の3月から繰り返された東京大空襲の爆撃によって破壊された家々などの廃墟が、まだあちこちに残っていて、外遊びしながらぶらぶら歩いたことが記憶に残っていますが、正確に何年ごろだったのかは分かりません。ある時、珍しく父親と一緒だったという記憶なのですが、新宿に歩いて出る際に、甲州街道で、すべての信号を止めて米軍の軍用車列が都心の方向へと走ってゆくのに出くわしたことがありました。カッコ良いとは思いませんでした、むしろ圧倒的でなんだか呆然とするしかなかった、という記憶です。今にして思えば、もしかしたら朝鮮戦争が始まったか激化した頃の情景ではなかったか、とも思われますが。当時は、乗り物好きの男の子には、近くの道路を走る「アメ車」、当時はやたらと大きかったキャデラックとか、車体の丸っこいカーブが特徴的だったシボレーだとかを目にするのが、すごく魅力的だったのですが、軍用ジープや装甲車の類は、やはり恐ろしさの方が先にたったのだろうと思います。後で触れますが、近くにワシントンハイツが広大に広がっていた当時、山谷町界隈ではアメ車を目にすることは、珍しいことではなかったのです。

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。

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