私はモノ持ちが良い方なのか、最初に取った旅券(パスポート)から、いまも有効な最新のものまで、6冊が手元にあります。現在の旅券は、少しコストは高いけれども10年有効が最長ですね。かつては数次旅券も5年までだったのか、それとも私がケチっていたのか、よく憶えていませんが、最初の2冊は5年有効、大きさも現在の形になる前の少し大判です。懐かしく眺めたのですが、一番はじめのものが1974年7月10日付の発行でした。何と今年で50周年とは、歳とるわけです。
この最初のパスポートは、連載の第5回目「トサカに来た話」の帰路ギリシアに寄った話題に出てくるように、フランス政府給費留学生(当時も現在もブルシエと略称されます)としての留学のためでした。したがって東京のフランス大使館発行の13カ月有効のビザが、当時のジャン・ショーヴァン公使のサイン付きで1ページを占領しています。パリに到着したあと、当時はシテ島の警視庁の向かいにあったイミグレーション・オフィス、つまり移民局に出向き、そこでこの留学許可のビザを示して滞在登録をし、滞在許可証カルト・ド・セジュールを発行してもらうという手順です。私の場合は公式ビザがおりていますから、何の問題もなくさっさと済みました。
しかし、皆が留学生の訳はなく、むしろ移民労働者としての、あるいはその家族としての滞在登録申請者たちが、その場の中心でした。日本では、会話の先生たちの正しいフランス語、または映画の画面から、あるいはレコードから流れてくるフランス語くらいにしか接していなかった私にとっては、そこで交わされていたやりとりの中身まで正確にはつかめませんでしたが、当時、その圧倒的多数は明らかにマグレブ3国、つまりアルジェリア、チュニジア、モロッコという、かつてフランスが植民地統治をした国々からの労働希望者、あるいはその家族、と思われました。このマグレブ3国からの労働者は、フランスの戦後復興の過程で、不足していた労働力を安価に補うために政策的に導入されたのですが、1970年代に入って国際政治経済が混乱を強め、ドルショックやオイルショックが起こってのち、ジスカール・デスタン大統領時代が始まったところだったフランスは、移民導入から規制政策に転換し始めたところだったのです。私の約2年の留学期間は、ちょうどその始まりの時期に合致していて、窓口対応する係官たちの姿勢、態度は、これが人権の国の対応なのか、というほどつっけんどんの、明らかに差別的な姿勢でした。とはいえ、着いたばかりの一介の留学生に何ができる訳でもなく、現実は簡単ではないぞ、ということを肝に銘じて私の滞在は始まったのでした。