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連載エッセイ

2024.04.22 更新

頼りないながら、フランス娘のゴッドファーザーとなった話[2]

 この最初のパスポートでは、のちにはなくなるいくつかの手続きの跡が残っていて、そうだったなあと回想されます。一つは「予防接種国際証明書」という別の蛇腹折りの証明書類がホッチキス留めしてあり、そういえばこの時期にはまだ「痘そうの予防接種に関する国際証明書」が必要だったのでした。天然痘からの解放がWHOによって公式に宣言されたのがいつであったか、うまくフォローできていませんが、この時点ではまだで、同じ証明書の書式には「コレラの予防接種証明書」の書式もついていますが、これは特定のアジアの国への渡航について必要だったのでしょう。

 まだインターネットはもちろん、PCなど影も形もなく、ワープロ専用機もまだなら、ファックスすらありませんでした。ソニーの小型テレコ(テープレコーダ=録音機)は、各地でもてはやされていましたが、まだ高価だったコピー機もほとんど普及してはおらず、普及していた複写機はまだ湿式!ですから、歴史の調べものをして研究するにも、ひたすら紙資料を読み、手書きで書写するしかないような時代です、1970年代半ばでも。まだパリのマレ地区という歴史街区に位置していた国立古文書館アルシーヴ・ナショナルでも、当時はその脇の建物に入っていたフランス社会史研究所でも、あるいはセーヌ左岸のパリ5区の区役所上に位置している警視庁文書館でも、どこでもそうでした。例外的にコピー機があったとしても、1枚の値段はえらく高かった。したがってひたすら現物の紙資料を読み、手で写す。スマホでフラッシュなしでも写せてしまう現在とは、全く手法は違い、現在より中世に近かったかと、本気で思うくらいです。ただ、機械によるコピーや写真複写が簡単になると、もちろん圧倒的に便利ですが、コピーしただけでかえって全ては読まなくなる、あるいは量的に限度を越して読めなくなる恐れがあるのも、経験的な真実でしょうか。

 もう一つ、今とはまったく違っていたのは、通貨の交換レートのあり方を反映したものです。第二次大戦後のドル基準の国際通貨体制では、基本は固定相場制で1ドルは360円でしたし、1フランは72円でした。日本経済がかつての高度経済成長以前にはいかに弱体であったかが、象徴されていたともいえましょう。私が留学開始をした1974年には、世界の通貨はすでに変動相場制に転換した後であった訳ですが、まだ自由に市民個々人が外貨を買うことはできなかったのか、その点は改めて調べ直してはいませんが、私の最初のパスポートには、外貨購入の記録が残されています。

 一般市民がフランを購入するには、たしか東京銀行でしかできなかったように記憶していますが、これは確かではありません。パスポートでは1974年9月20日、つまり24日の羽田からの出発近くに、現金で750フラン購入した記録で、なんと、「許可または承認番号」、「売却年月日」、「売却金額」、「売却銀行の名称・証印」、という項目のある横長ハンコが押され、それが記入されて残されているのです。それにしてもわずかな額しか購入していないのは、我ながら生活力が疑われる、呑気なボンボンだったのかと思わせますが、さすがに、これだけではマズイと思ったのか、あるいは心配した親からも指摘されたのか、全く覚えてはいませんが、出発当日に富士銀行(現在のみずほ銀行)吉祥寺支店で、ドル建てのトラベラーズチェックを作ったのも、フラン購入と同様に記録されています。

 いまでは私の最初のパスポートは歴史資料みたいなものです。いつから完全に通貨市場が自由化されて、誰にでも記録なしに購入可能になったのか、調べてはいないのですが、1970年代末か80年代のどこかでしょう、88年に発行してもらった2冊目のパスポートには、外貨購入の記録などはありませんし、実際パリで、なるべく有利な交換レートの銀行を見つけて、持参した円の現金をフランに交換したことを良く覚えています。銀行によって微妙に交換レートは異なっていたのですが、すでに完全自由化されていた通貨市場では1フランはほぼ20円ちょっとで、かつての72円とはえらい違いでした。日本では当時バブル経済が怪しくなりだしていたとはいえ、円の価値は対フランでも対ドルでも、随分上昇したことになります。我々一介の市民にとっては、この時期からユーロが導入されるまでの間が、旅行するにはもっとも有利だった時代で、対フランだけでなく、イタリアのリラやスペインのペセタは円との関係でいえば随分安かったので、それらの土地を旅すると、なんとまあ金持ちになったのかと錯覚するほどの、今では懐かしい時代でした。おかげで私らは本を買い過ぎて、「そんなに読めるわけないじゃないの」と正論を唱えられて、家人には怒られていましたが。このところの円の暴落とも言える状態は、ちょうど逆ですね。インバウンドの観光客にとっては、日本はなんて安い国なのだ、天国みたいだと言われる訳です。

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。