だいたい吉祥寺に住まう

ゆるく楽しく、
都市住まいをする大人のために

2025.12.22 更新

戦後80年の節目に呼び起こす記憶(下)

 前回にも書きましたように、私が生まれたのは日本の敗戦から間もなく、新憲法が制定された1946年です。幼い頃の記憶がそれほど明確ではありませんが、今と違って、おもちゃなどが簡単に手に入るわけでなく、絵本のような、子ども向けの本も、手元に多くはなかったように思います。戦後すぐには紙の調達や印刷機械の準備など、出版社は多くの苦労をかかえていたはずです。出版史をひもといて確認したわけではないので、私のあやしい記憶で、ですが、小学校に入る頃に『小学一年生』という、発行は小学館でしょうか、学年ごとに刊行された月刊誌を読み始めたような。やがてそれには、おまけの読み物冊子や、簡単な工作をたのしめる付録などがつくようになりましたが、それはだいぶ学年が進んだ後のこと、つまりは吉祥寺に転居した後だったかもしれません。小学校の高学年の頃には、付録の冊子で、やさしく書き直された怪盗ルパンものなどを読んだような気もするのですが、別の経験とごっちゃになっているかもしれません。

 代々木在住だった幼少の頃には、簡単な幼児向け図鑑のような絵本が家にあったような気もしますが(3歳上の姉がいますし、母は優しい人でしたが、今で言う教育ママのさきがけのようなところもありました)、私はすぐに外にとび出して砂利道で三輪車に乗ったり(家の前の路地は、たまに自動車が入ってきて目を引きましたが、そんなことは滅多にありませんから、安全そのものでした)、時期によっては木苺の実などをとって食べたり、小さな裏庭に両親が作っていたトマトやキュウリのなり具合を見に行ったり、前回書いたように神宮の芝庭まで冒険の遠征をしたり、と、どちらかといえば外遊び派だったようです。

 現在の子供たちは、おそらく多くは塾通いだとか、道路では自動車が危なかったり、外遊びしたくてもなかなかうまくチャンスがつかめないまま、スマホだのゲーム機だのを早くから手にしているようで。知識は多くなるかもしれませんが、何か直接経験の幅が小さくなりすぎていないのかなあとも、気になります。私の子供たちが幼少期から小学校の時期を過ごした、昭和最後の時期や平成の初め頃までは、必ずしもそうではなかったようにも思えるのですが、どうでしょう。子供達を寝かしつけるために、私もずいぶん絵本などを読み聴かせたものでした。なぜか我が家では、母親ではなしに父親である私が、読み聞かせ係、風呂にも入れる係、でした。『長くつ下のピッピ』のシリーズや、エンデの『モモ』など、大人が読みながら考え込んでしまうような本も、子どもたちは子供流の受け止め方を、それぞれにしているようで、それがとても興味深かったのを記憶しています。角川から出されていた日本昔話シリーズも、その一つでした。怪談ものに近い内容の昔話を、年上の男の子の方が少しこわがって、下の女の子の方が面白がって何回でも読んでとせがむ、というのも、人間て面白いなあと、大学で教え始めていた私にとって良い経験だったと思っています。

 その後、とくに21世紀に入って、電子機器の発達が、子供達にもたらした成長経験の変化は、非常に大きいようです。それは、もう少しきちんと、良い点、悪い点、整理して研究しておかないと、世の中おかしくなっていかないかなあと案じられます。まあ、そういう思いは老いのなんとか、かもしれず、それなら良いのですが。

 さて戦後の話に戻ると、吉祥寺に引っ越した後の私の小学生当時、吉祥寺駅前のハモニカ横丁のなかには模型屋さんがあって、細い竹ひごや紙、動力用の長いゴム紐などが一揃い入っている、飛行機を自分で作って飛ばすキットを、売っていました。何がきっかけで知ったのかまでは覚えていませんが、小学校の仲間内では結構トライする友人がいたことは確かです。貯めたお小遣いをだいじに持って、買いに行ったものでした。材料が一揃い入った袋を、壊さないようにドキドキしながら開けて、廊下の板敷の上に並べます。燃えないように少し濡らした竹ひごを、立てたロウソクの火などで、気をつけながらあぶって曲げてゆき、羽根(主翼)の枠を作り、そこに丈夫な薄紙をノリで貼り付けて主翼を作成し、長い棒のような胴体の定位置に取り付け、同様の手順で水平、垂直の尾翼も取り付けた後、先頭につけたプロペラを、胴体の木の下側にそって伸ばしたゴム紐に接続する、これらの作業を順次すすめて飛行機にするという、言葉で書くにはちょいと複雑な工程を、苦労しながら楽しんで作り上げたものです。作り上げるまでが一苦労。さらに、バランスよく飛ばすのは、もっと慎重にも慎重なタイミングをとらないと、空には上がらないので、ほとんど半日かけていたように記憶に残っています。ただ紙を折っただけの紙飛行機を飛ばすのも、なかなか面白いのですが、今ではほとんど見かけなくなりましたね、そんな遊びをしている子供たちは。いるとすれば、昔を懐かしむおじさん、お爺さんたちだけかも。

 ちなみに、私が吉祥寺に引っ越してきた当時、幹線以外のほとんどの道はまだ砂利道で、大正通も然りでした。そこを、汲み取り式の便所からの排泄物を集めた桶を乗せた荷車が、小馬だったのかロバだったのか分かりませんが、それに引かせて通るのを、うわーとか言って小学生である僕らが避けて眺める、といった光景が、印象的だったのだと思いますが、奇妙に記憶に残っています。代々木時代には、そういう記憶がないのがどうしてかは、分かりません。吉祥寺の拙宅前の道は全くの私道で、両側の家がほぼ半分づつ提供した土地を使って、かつては土の道でしたから、大雨などが降ると泥道となって歩くのに往生したことを記憶しています。いまは昔のことですが。いまは舗装された道路をクルマがひっきりなしに、傍若無人にと言いたくなる感じで通るのも、うんざりですね。

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。

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