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2026.02.24 更新

戦後80年の節目に呼び起こす記憶(番外編1)

 これまでにも、すでに何回か触れたことなのですが、私の家族が吉祥寺に転居してきたのは、私が武蔵野第一小学校2年生に転入する年の3月、ずいぶん昔の話ですが、1954年のことでした。戦争というのは、直接の戦闘に巻き込まれるか否かにかかわらず、市民生活のさまざまな側面を否応なく混乱させるものですが、この転居についても、また然り、でした。NHKのファミリーヒストリーという番組の真似ではありませんが、戦争と戦後の時代に振り回されたこんな家族もあったという事例として、戦後80年の節目のシリーズの最後に、書いてみます。

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 転居した吉祥寺の家には、私の母方の祖父と祖母が、何年か前から、既存の日本式家屋を土地付きで購入して入居していたのですが、祖母の方が昭和28年、1953年の5月に癌で他界してしまい、明治14年生まれの祖父が、一人取り残される形になってしまいました。癌は、当時はまだ不治の病とでもいうべきものでした。同じ東京で暮らしていたのですが、まだ元気だった祖母に幼児だった私が会った記憶は、一度しかありません。祖母は明治24年生まれでしたから、計算してみれば、享年62歳、今から考えれば、ずいぶん若くして亡くなったことになります。しかし実に子沢山で、かつては良くあったことではあると思いますが、5人の娘と2人の息子に恵まれた人でした。私の母はちょうど7人の兄弟姉妹の真ん中であったこともあるのかもしれませんが、私が物心ついて親戚付き合いの模様に接するようになった後で感じるようになったところでは、何か家族内での調整役のような位置を占めていたような感じでした。

 おそらくは、そんなこともあって、われわれの家族が引っ越して、祖父と同居することになったのかもしれません。それに私の父親は、戦後すぐに商工省から通産省へと変わった官庁の勤めで、外務省へも出向して、講和条約以前から通商関係の回復の可能性を広げる役割を担って、しばしば北米から南米、ヨーロッパへと、海外出張をして家にいないことも多い人だったのでした。子供たちからすれば、まだものがまったく不足していた時代に、海外からのちょっとしたお土産がたのしみだったことを記憶しています。

 男一人だって生活していけるだろうと、今なら普通にそう思いますし、当時でも一人暮らしの男性はいたわけですが、私の母方の祖父は、それまで常に大家族で、住み込みのお手伝いさん(かつての言い方ですと女中さん)を何人かおいている家の主で、自分はおよそ家事にあたることには一切関わらない(今の私の正反対)、裕福な近代型家父長の典型のようなタイプだったようです(これも私とは全く異なります)。同居し始めた私たち子供からすると、老齢で威厳のある雰囲気でしたので、怖そうな人だなあと、いささか敬遠ぎみでしたが、しかし周囲に威張り散らすようなことは一切なく、かつてからお手伝いさんたちの結婚相手の世話などにも気を配る、家族生活という点では、いまでは昔話になったかもしれないようなタイプの人だったといえるのかもしれません。

 じつは、祖父母とその子供たち(つまり私の母や叔父叔母です)、そしてお手伝いさんたちは、昭和の初めに、開発が完成した田園調布の斜面に購入した用地に、芝生の庭を備えた西洋式の2階建ての、当時としては先端的な家族用住居を建てて暮らしていたそうです。それというのも、まだ祖父が壮年期であった大正年間の第一次大戦後に、勤めていたのが財閥系の企業だったようですが、ロンドン支店長として赴任を命じられ、(現在とは違って桁はずれに思えますが)家族全員とお手伝いさんまで日本から同道して船で渡航し、大正末年に帰国するまで7年ほど滞在した経験をもって、日本でも洋風の生活(現実には和洋折衷というべきでしょうが)をしたいと考えたからでした。母やすぐ下の妹は、ほんの幼児のころから、日本語を使う養育係と現地の英語のメイドさんとの双方の世話のもとにあったそうで、母の弟はロンドンで大正13年に生まれたという、帰国子女の先駆けみたいな人たちだったわけでした。

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。

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