こうした余裕のある生活は、1941年(昭和16年)12月の日本軍による真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦による対アメリカ、イギリス、オランダとの開戦によって、戦時体制となり一変します。昭和11年に商工省に入省後、内閣興亜院に出向させられていた私の未来の父親と、母親とは、まさにこの開戦の年に結婚していたのでした。結婚して間もなかった父親は、開戦すぐの昭和16年末に、応召して陸軍に配属されたそうです。翌年の17年には、フィリピン軍政監部付の事務担当としてマニラに配属させられたのでしたが、戦闘部隊ではなく、事務官としてだったのが幸いしたのだと思います。戦況がまったくの日本不利になるなかで、帰国命令に基づいて台湾経由で陸軍輸送機に便乗する形で帰国したのでした。途中、米軍戦闘機に遭遇すれば撃墜されますから、気が気でなかったと、晩年に珍しく戦時中のことを語ってくれた父親から、聞かされたのでした。もしその時、撃墜されていたら、私も姉妹も、この世には生まれていなかったことになります。
幸いにして家族には、誰も戦死したものや、空襲で命を失ったものはいなかったのですが、敗戦直後に祖父の一家では、家を失うことになったのでした。しかしそれは、空襲によってではありませんでした。田園調布が位置する当時の大森区も、昭和20年の東京大空襲で、海岸に近い一帯は壊滅状態にされたのですが、田園調布の丘陵部は空爆されませんでした。意図的であったかどうかは、わかりませんが、米軍は、東京の地勢図だけでなく各地区の特徴や、何があるかまで、克明に把握していたようです。たとえば、東京の下町一帯を壊滅させた大空襲でも、本郷地区の東大本部や、貴重資料を膨大に所蔵していた東洋文庫一帯は、まったく爆撃対象から外しているのです。
じつは日本の敗戦直後に、日本を占領した米軍を中心とする連合国軍は、軍事関係施設や土地を占領下に置いたことは当然でしたが、民間の重要施設や、家屋などを接収して、管理下に置いたり利用するという行動を広範に展開していたのでした。民間建物の接収が、どの程度展開していたのか、全体を研究した論文などがあるのかどうか、専門違いの私には分かっていませんが、接収の事例として有名なのは、北区滝野川にある古河庭園と、そこにある、かつてコンドルが設計した重厚な2階建ての西洋館という事例で、ここは、接収後には、英国大使館に配属され来日した独身武官たちの宿舎として利用され、講和条約締結後まで接収が続いたそうです。
この場合は、非軍事的な民間の建物とはいっても、古河財閥が企業として会合などに利用していた施設だったわけですが、私の祖父母がまだ未婚だった子供たちと暮らしてきた田園調布の西洋式住居も、ある日突然、連合国軍兵士たちがやってきて、土足のまま上がって内部の様子を検分して、接収することが告げられたというわけです。祖父母やその家族が、直接確認したのかどうかは知りませんが、おそらく連合国軍の上級将校たちの家族宿舎として使われたのではないか、という話でした。
敗戦直後、こうした西洋式の民間住居がどのくらい、強制的に接収されたのか、どの程度、接収された家に住んでいた住民の転居資金などが提供されたのか、あるいはそうした資金措置はまったくなされなかったのか、など、もう少し詳しいことを私の親や親戚から聞いておけばよかったと、今にして思いますが、すでに遅しで、その辺の事情はわかりません。こうして母方の祖父母は、いったん新小金井にあった家を買って引っ越したが、これまた何か戦後特有の混乱した事情があったようで、ふたたび引っ越した先が、吉祥寺の日本家屋だった、というわけです。
私の吉祥寺在住に戦争の影がかかっていたことは、個人的には忘れられないことと言わなければなりません。

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏
学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長
1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。





